空港線のノンビリ時代
1998年10月27日
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空港線のノンビリ時代
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今では「空港本線」とでもいうべき状況となってきたが、かつては都会のローカル線然として3両編成の500形がのんびりと走っていた。"さいとうゆういち"さんから画像の提供をいただいたので、さっそく掲載したい。ありがとうございます>さいとうさん。なお撮影日はすべて1986/08/25である。
なお、このページでは写真をクリックすると、別ウィンドウが開いて元の大きな画像を表示するようにしました。
第一京浜を渡る
電車はのんびりしているが、道路は渋滞している。この頃はバブルの絶頂期に向かって景気が急上昇していた時期だった。
糀谷付近を行く
沿線の洗濯物をきっちり入れこんでいるとは、さいとうさん、なかなかの時代を見る目をもってらっしゃるとお見受けした。将来この区間が高架になるとこの写真は時代を物語る証人となるだろう。
大鳥居に到着
現在では大鳥居は地下駅。ホームの石積みが興味深い。
大鳥居ホーム
蒲田方面ホームの様子。ホームの石積みは低いホームの上にさらに石を積んだ様子が見える。
大鳥居の踏切を渡る
産業道路との平面交差は空港線を地下化する大きな要因となった。3両編成が5分おきに走っていた頃は頻繁に遮断機が降りて渋滞の原因となっていた。おそらく道路管理者から踏切が閉まる時間を減らすようにとの強い要請を受けたことが想像できる。そこで京急は輸送力を減らさないで本数を減らす方策をとり、空港線各駅のホーム延長・編成の8両化を決めた。
この踏切が地下化によって解消されたために、羽田空港駅開業に伴い列車本数が増えることになった。長い目で見れば京急は「災い転じて福となす」を地道に実行したことになる。
単線区間
穴守稲荷-羽田空港(旧)は単線だった。向こう側には留置中の500形が見える。
留置中の500形
左奥のほうに穴守稲荷駅のホームが見える。
羽田空港駅(旧)ホーム
羽田空港駅(旧)はもともと複線敷きだったところに作られたため、複線の片方の敷地をホームにして使っていた。そのため、穴守稲荷から留置線分をとったあと、単線になっていた。
羽田空港旧ターミナルのバス停
旧ターミナルと羽田空港駅(旧)とを結ぶ連絡バスのみが出発ロビー前から乗車できた。その他のバスは広いバスターミナル内を歩いてバスのホームまで行かなければならなかった。
この写真のみ私の撮影。この表示板は1998/10/04の鉄道バスフェスティバルで購入したもの。「第一オペ」「第2オペ」という漢数字とアラビア数字のとり合わせがちぐはぐで面白い。
羽田空港駅(旧)
羽田空港駅は海老取川の土手に面していた。駅前に止まっているのは空港連絡バス。
500形車内
うーむ。4つ扉。もはや言うことはない。
冷房化
八景のボードで。1986/08/29から冷房車が走るという。
(1998-10-27 作成)
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