2001年07月19日
議定 1
政治的自由は単なる思想
選挙によって支配者が取り替えの利くものと人民に思いこませるの議
美辞麗句はさておいて、ひとつひとつの思想の意味を語ろうと思うのじゃ。儂らを取り囲む諸事実に比較と推論の光をあてようと思うのじゃ。
ここに朕が提案したいのは、二つの視点、儂ら自身の視点と畜生共の視点から見た儂らの体系なのじゃ。
悪い本能をもった人間の数は、善い人間の数をはるかに凌ぐからの。朕は指摘せねばならぬ。やつらを統治するには、学者風情の論議によってではなく、暴力と恐怖によって達成することが、最良の方法である、と。如何なる人間も権力を目差し、誰も彼もができることなら独裁者になりたがるのじゃ。わが身の利益を手中にすることを抑えて、万人の利益の為にわが身を犠牲にしようという者は、めったにおるものではないからの。
人間という名の猛獣を抑えてきたのは何じゃったのか。今までやつらを牽引してきたものは何じゃったのか。
社会の仕組みが始まった頃には、やつらは残忍で盲目的な力に服したのじゃ。後には、法律に服したのじゃがの。法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎぬ。朕は、自然法則に従って、権利は力の中に横たわっておると結論するのじゃ。
政治的自由は単なる思想であっていささかも事実ではないのじゃ。じゃが、政権を持っておる党派を粉砕すべく、この思想を餌として人民大衆を自陣に引きつける必要があらば、その撒き方や使い方を知っていねばならぬ。その際、相手方が自由思想、いわゆる自由主義に感染しちょれば、そして、思想の為になら喜んで全力を投げ打つ積りあるならば、仕事はさらに遣り易くなるのじゃ。この場合には、儂らの所説が勝利することは目に見えておるのじゃ。支配の手綱が緩められると直ちに、新しい手に手綱が執られるのは、自然法則の赴くところなのじゃ。国家は盲目な力であって一日たりとも指導者なしにはすまされず、新しい権力者は単にすでに自由主義によって弱められた前任者の地位に座るだけだからの。
儂らの時代では、自由主義的であった支配者の位置にとって代るのは金力なのじゃ。かつては信仰が支配した時代があった。自由思想は誰ひとりとしてほどよい使い方を知らぬ。ゆえに、実現不可能なのじゃ。人民を無秩序な群集に一変させるには、やつらに一定期間自治を与えるだけで十分なのじゃ。与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、やつらの権威は一山の灰燼に帰するじゃろうて。
国家が内乱によって消耗するか、内部不一致の為に外敵の手中に落ちるかではな。どのみち、その国は回復できず滅亡するほかはないのじゃが。その時こそ、儂らの出番なのじゃ。完全に儂らの手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なくやつらはそれに縋りつかねばならぬ。拒めば、底に沈むだけのことじゃ。
自由主義的な考えを持っておる人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、朕は次の問いを投げ返したい。どの国も両面の敵を持っておるとする。外敵にはあらゆる策略を用い、たとえば敵には攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれねばならぬのか?
愚にもつかぬものではあっても反対とか批判とかはありうるし、上辺のことにしか理性の力が働かぬ人民は、反対ということを喜ぶものじゃ。かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けをかりてうまく大衆を導く希望をもてるのじゃろうか?
専ら浅はかな情熱、つまらぬ信念、習慣、伝統、感傷的な理論だけに囚われておる間違いだらけの人々は党派根性に囚われるのじゃ。そうなると、完全に理の通った議論を基にした如何なる合意をも妨げるのじゃ。群衆の解決というのはどれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであり、政治の裏を知らずに管理の中に無政府主義の種子を蒔くという奇妙な解決を出航させるのじゃ。
政治は、道徳とは全く関係がない。道徳で統治する支配者は練達の政治家ではないから、彼の王座は動揺するのじゃ。支配したいと思う者は(儂らが所有する新聞に感謝するところじゃて)気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いねばならぬ。率直とか正直とかのような、偉大な国民資質と称されるものは、政治にとっては悪徳なのじゃ。それらは支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのじゃ。そのような資質は、畜生共の王国の属性でなければならぬが、儂らは決してやつらの轍を踏んではならぬ。
儂らの権利は力の中に横たわるのじゃ。「権利」なる言葉は抽象的な思考であって、なんら具体性はないのじゃ。その言葉は次のことを意味するに過ぎぬ。「わが欲するものを我に与えよ。我が汝らよりも強きことを証せんが為に。」
権利はどこから始まるか?
どこで権利は終るか?
権威の仕組が薄弱で法律が空疎であり、自由主義の濫用により権利を乱発し支配者たちが脆弱となった国家なら如何なる国でも、朕は新たなる権利を行使できる。強者の権利によって打撃を与え、既存の秩序と法規の一切を粉砕し、すべての機構を再構築し、自由主義の中で放棄されて儂らに残されたやつらの権威ある権利を継ぐ王者となるのじゃ。
すべての形態の権力が動揺しておる現在、儂らの権力は、他のいかなる権力にもまして目に見えぬじゃろうて。いかなる狡猾な者もくつがえせぬ強さに到達する瞬間まで、儂らの権力は表面には現われぬのじゃからの。儂らが目下用いざるをえぬ一時的な悪から、確固たる支配という善が顕現するのじゃ。この善は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組を平常の状態に修復することになろうな。目的は手段を正当化するのじゃ。しかしながら、儂らの計画においては、必要と有効なこと以上には、善とか道徳とかにはこだわらぬことに留意しようではないかの。
儂らの前には戦略的に敷かれた計画が有るのじゃ。数世紀にわたる儂らの辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱することは許されぬ。
満足すべき行動を練りあげる為には、群集の狡猾さ、だらしなさ、情緒不安定、やつらの理解力の欠如を考慮に入れ、やつら自身の生活状況、あるいはやつら自身の福利を顧慮する必要が有るのじゃ。群集の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに動き、道理をわきまえぬということを理解せねばならぬ。盲人が盲人を導けば奈落に落ちこむのは必然なのじゃ。群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解することはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは必然なのじゃ。
幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせておるイロハを理解することができるのじゃ。
人民が人民に任せれば、すなはち人民の中から出た成上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山なのじゃ。人民群集がおだやかに、つまらぬ嫉妬を交えた非難を言いたてずに、個々人の関心をごちゃまぜにしておる国の諸問題を処理することが可能じゃろうか?
外敵に対して自分自身を守ることが可能じゃろうか?
それは考えられぬ。群集の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失って理解を絶し、実行不能となるからなのじゃ。
全体を適切に国家のいくつかの部分に割り当てるといったふうに、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけなのじゃ。このことから、如何なる国でも申し分ない統治形態は、一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られるのじゃ。絶対的な独裁なしには、その人が誰であろうとも、群集によってではなくやつらを指導することによって遂行される文明の存在はありえぬ。群集は野蛮人であり、ことごとくの機会にその野蛮さを発揮するのじゃ。群集は自由を手にしたとたんにいち早く無政府主義に転ずるのじゃ。無政府主義それ自体は野蛮の最高の段階なのじゃ。
飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった野蛮人どもを見よ。自由がやつらに節度なき飲酒の権利をもたらしたのじゃ。それは儂らや儂ら一族の歩む道ではない。畜生共はアルコール飲料に酔いしれ、やつらの若者たちは因習陋習とごく若いうちから性的堕落に痴呆状態となって成長するのじゃ。その性的堕落は、儂らの特別な代理人、富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしば畜生共の娯楽場におる儂らの女性たちによって手ほどきされたのじゃ。やつら代理人の最後に、朕は、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵である、いわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておくのじゃ。
儂らの合い言葉は、力と偽善なのじゃ。特に力が、政治家に本質的に必要な才能の中に隠されておるならば、力のみが政治的諸問題を克服するのじゃ。暴力は原則でなければならず、新権力の代理人の足もとに王冠を置こうとせぬ政府に対しては欺瞞と偽善が鉄則でなければならぬ。この悪は終局である善に達するための手段にすぎぬ。それゆえに、儂らは、目的達成の為に役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りを躊躇ってはならぬ。政治の上では、支配権を握って屈伏させるためならば、躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていねばならぬ。
平和的な征服の道を進んでおる儂らの国家は、盲目的な服従を強いる為に恐怖を維持する必要から、目にはつかぬが効果のある死刑宣告をもって、戦争の恐怖にとって代わる権利を持っておる。仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力なのじゃ。単に利益を得るためのみならず儂らの義務としても、また、勝利の為にも、儂らは暴力と偽善による計画を保持し続けねばならぬ。報復主義は使われる手段と同じく、有無を言わさず強力なのじゃ。それは手段そのものであるというよりも、儂らが勝利し、すべての政府を儂らの超政府にひざまづかせる厳格な教義なのじゃ。儂らは容赦なく不服従というものを根絶することを、十二分に思い知らせるのじゃ。
はるか以前の時代にさかのぼれば、儂らは人民群集の中にあって「自由・平等・友愛」という言葉を叫んだ最初の人間であったのじゃ。以来、幾度となく愚かな鸚鵡たちが四方八方からこの餌に群がり集まり、世界の福利と、以前は群集の圧力に対してよく保護されていた個々人の真の自由とを、この餌をもって破砕し去ったのじゃ。畜生共のうちの賢者になりたがり屋ども、知識人たちは、もともと中味のないこれらの言葉から何も作りだすことができなかったのじゃ。これらの言葉が意味するものと相互関係とを否定することには考え及びもしなかったのじゃ。どこをどう見ても平等はなく、自由などありえず、自然そのものはその掟に従わせるように作られておるのと全く同じく、気質、性格、能力が不平等に作用しておることを見なかったのじゃ。群集が盲目であること、支配を頼む為にその中から選挙された成り上がり者は、政治に関しては群集と全く同じく盲人であること、政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとしても奥義を授けられぬ者は政治に関しては無知蒙昧であることを、決して考えようとはしなかった。これらのことを、畜生共は一切顧みなかったのじゃ。しかも一貫して王朝支配が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからなのじゃ。王室以外の者や統治される者には誰にも知らされぬ政治統治の奥義は、父から子へ一子相伝で伝えられたのじゃ。時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われたのじゃ。これこそ、儂らの主義を成功に導く絶好の機会であったのじゃ。
地球のいたる所で、儂らの盲目の代理人たちのおかげで、「自由・平等・友愛」という言葉が、儂らの旗印を熱狂的にかざす大群を、儂らの隊列に引き入れてくれたのじゃ。これらの言葉はまた常に、畜生共の福利に穴をあけ、いたる所で平和、安寧、協同に終止符を打ち、畜生共の国家の基礎を破壊する生きた害虫であったのじゃ。後に述べるように、このことが儂らの勝利を助けたのじゃ。とりわけ、儂らが切札を手中にする可能性をもたらした。特権の破壊、言い換えれば畜生共の貴族支配の存在そのものの破壊なのじゃ。唯一、人民と国とを守るこの階級は、儂らに敵対したのじゃ。畜生共の血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた所に、儂らは、金力の貴族が主導する、儂らの教育を受けた階級を貴族として樹立したのじゃ。儂らはこの貴族政治の特徴を、儂ら自身のものである富と、儂らが学識ある長老たちが備蓄した知識とによって確立したのじゃ。
儂らの勝利をいっそう容易ならしめた事実が有る。好ましい人物たちとの関係を保つことによって、儂らは常に人間の心の琴線に触れ、金銭欲に、貪欲に、人間のあくことをを知らぬ物質的欲望に働きかけたのじゃ。言うまでもなく、これら人間の弱点のひとつひとつには、独創性を麻痺させる効果が有る。この弱点のゆえに、やつらの行為に金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねるのじゃ。
自由という言葉の抽象性のゆえに、儂らはすべての国の群集に、やつらの政府は国の所有者である人民のための豚小屋の番人に過ぎぬのじゃ、番人は破れた手袋のように取り替えていいものなのだと説きつけることができたのじゃ。
人民の代表は取り替えられるものなのじゃ、ということは、儂らが自由に利用できるということであり、言うなれば、任命権を儂らに預けたことになるのじゃ。
フランス革命後の長い混乱と自由主義の台頭、貴族支配のたががゆるみ始めるといった、当時の社会変動を裏面から操っているのは「儂ら」じゃという観点に立った議論。
ただ、表面に現れている事象を自らの陰謀としてまとめ上げ切れていないところが可愛い。仕方ないので歴史的な変遷を騙ることでお茶を濁している。終盤でなんとか体裁を繕って、支配者の任免権は「儂ら」にありと苦し紛れに締めくくっている。
ここで、「儂ら」と「朕」の区別は如何?「儂ら」はダヴィデ王朝を引き継ぎ世界を支配しようとするもの。「朕」とは、その王(とその子孫)ということになる。この議定書では「朕」が語る形をとっているが、支配計画や戦略・戦術を語るのはほとんどすべて「儂ら」になっていて、「賢人会」での「議定」が記されているとの形をとっている。
「朕」の意志のみならず「賢人」達の合議であるぞよ。といったところか。
(2004/07/01 コメント)
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