2005年09月19日

クオリア

こんなことありませんか?
本物の名画を、美術館で本物の名画をみたとき。教科書で見たのとは違うような...そういう違和感がする。名画の本物を見ると「こんなに小さいんだ。」「こんなに大きいんだ。」「本物はこういう色だったのか。」私が海援隊の旅行で北海道の岩内国民宿舎に行ったとき、その宿舎の人がぱっと私を見て、「あ、武田鉄矢だ。なんかTVと違うね。」これが違和感。いつも見ているそれと違うという感じ。

今週は「クオリア」これは「質感 手触り」というような意味。茂木健一郎の著作。脳の仕組みはコンピュータである。「脳の構造はわかった。」コンピュータとの違い「クオリア=質感」人間の脳しか感じられない。

たとえば、チェスの試合。
コンピュータ:過去のデータを探す
人間:まか不思議なことを始める。データを無しに試すようにチェスを進める。
これが直感。直感を生み出すプロセスでデータ化されていない意識=無意識が必要。

猿の実験「レバーを押すとジュースが出ると言う装置」 レバーが3つあって100%ジュースが出るレバーがある。あと 50%、0%のレバーがある。猿は最初は100%で喜んで飲むんだけど、そのうち飽きて 50%のレバーを押し始める。脳は先が読めないと言うことにドーパミンがでる。つまり丁半ばくちにはまるようにできているのが脳。

見ている=工学処理をされて脳に伝えられて、「見えている」脳が処理されている。 外の世界の現実と脳が見ているモノとは違うかもしれない

スピードスケート 清水選手がインタビューでおもしろいことを言っている。「これまで感覚的なことを言葉にしなできた。しゃべるとだめになる。言葉にしてしまうともっとスピードを上げようとしたときに、言葉で探り始める。」つまり、言葉でわかってしまうと脳は限界より前にブレーキをかける。

一流選手ほど自分の技術を言語化できない。

脳は安全と不確実を乗り越えなければその先に行けない。次の新しい自分をステップアップしない。 私の中に私はいない。他者の中に自分はいる。自分は他者との関係によって成り立っている。

前頭葉前頭前野にはミラーニューロンというのがあってこれは「運動」の時に活躍する。その働きは 人の動きをじっと見ていて鏡のように写し取る。自分と重ねる。 だから運動をやるときにインストラクターが必要。

脳はノイズを必要とする。

ふりをすることの重大さ。最初はまねごとのふりでいい。ふりするうちにそうなっちゃう。これは「形態形成場」=個人がそこにいることによって「場」が形成される。「しつけおもいやり=ふり=擬態」これが大事。

モーツァルトもそうだった。お父さんはアマデウスに宮廷楽師ふりをさせてた。そのふりから天才になっていった。

それがデータとなって無意識に取り込まれていく。自分自身をずれないと脳は発達しませんよ。日記を書いている私と読んでいる私は別人だ。私は私を会話しなければ私を失う。それは私をたどる物語。意識と無意識は絶えず討論をしながら魂を通じて自分を作るという作業をしている。

我々は進化したくせに失ってばかり。毛をなくして 視力を失って、自然の強さをなくしていた。 では強くなったのはなにか?
それは感情。人間は感情を進化させた。ネアンデルタール人は仲間の死を悼んで墓に花を添えた。人間の感情の進化は悲しみから始まった。

(2005/09/19~23 放送)

Source

cover 脳と創造性 「この私」というクオリアへ
茂木 健一郎 (著)

Amazonの「BOOK」データベースより
クオリアは、あくまでも私秘的な(プライベートな)体験である。その私秘的な体験が、逆説的ではあるが、個別を超えた普遍性を支える。確かに、自分の見ている赤と、他人の見ている赤が同じであるということを確認する術はない。しかし、意識の中で感じるクオリアこそが、私たちの生み出す様々な科学、文学、芸術上の作品の普遍性を担保するのである。その普遍性への根拠のない信仰を抜きにして、創造の苦しみに耐えることなどできない。

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