2005年10月29日
「道」のマジック
物事の行為を「○○道」という、一種精神的な高まりをつけた呼称を奉られることがある。
ところが、この「○○道」には行為の矛盾を正当化するロジックが組み込まれていることがよくある。
たとえば、「おじゃる丸」では「シャクを取り返す道」として登場する。おじゃる丸がエンマ大王から奪ったシャクを子鬼トリオが取り返しに来る。というそれだけのものだが、シャクを返したくないおじゃる丸が精神的満足感を「道」として提示してみせる...というか「小理屈」をつけて子鬼トリオを黙らせて引き下がらせる。
いったん子鬼トリオがシャクを取り返すのだが、「そのような卑怯な取り返し方で、そちらは満足できるのかの?正々堂々と取り返してこそ、『シャクを取り返す道』も完成...云々」この屁理屈に子鬼トリオが説得されてせっかく取り返したシャクをおじゃる丸に返してしまう。
「行為の目的が達せられれば、その行為が不必要になる。」
場合によく見られる。
☆大学に入学するために勉強する→大学生になると勉強しない。
☆病気が治るように神さんにお参りを続ける→快癒に伴い、不信心に戻る。
☆政権を奪取するためにテロ行為を行う→政権を取った実力者はテロ実行者を粛正する。
これらは、「健全」(?)な流れなのかどうかはともかく、通常目的を達するとその行為も収束を見る。
ところが、
「○○道」には実は巧妙なロジックが組み込まれている。それはずばり、
「行為そのものが、本来の目的に取って代わり、行為そのものが目的となる。」
場合がままあるのだ。その結果の善し悪しはともかく。
☆勉学に生き甲斐を見いだした大学生が大学入学後さらに勉学にいそしむ。
☆お参りすること(信仰)自体が生き甲斐になり、病気治療がなおざりになる。病気が慢性化する。
☆テロリスト集団は自らの存在を正当化するため、敵を次々と取り替えて、テロ行為を行い続ける。
そう、気づいた方も多いでしょう。「正義の味方」もこのロジックが当てはまる。「悪」を倒してしまえば、「正義の味方」は不要になるのだ。信者がすべて幸せになれば、その宗教は不要になる。そこで、目的と手段が取り替えられる。「正義の味方が存在するから平和なのだ。」「この宗教を信仰してるから幸せ。」
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