2001年07月17日

議定  3

自由は闘争を生む

自由主義を鼓舞し新聞を使って人民をたき付け革命を起こさせるの議

 今日、儂らはあと数歩で目標に到達せんとしておると言ってよい。横切るべき空間はあとわずかを残すのみであり、儂らが歩んできた長い道のりは、今まさに象徴の蛇の輪を閉じようとしておる。その蛇は、わが民を象徴しておる。この輪が閉じられるとき、ヨーロッパのすべての国家は強力な万力によって締め上げられるのじゃ。

 当今の国政機構の天秤はほとんど破壊しておるも同然なのじゃ。なぜならば、儂らが、支点を軸として揺れ動き転回させるべく、正確な均衡を欠くように設定してあるからなのじゃ。畜生共はしっかり固定してあると思い込んでいて、天秤が釣り合いを取り戻すはずだと、ずっと期待し続けておるのじゃ。じゃが支点(王座に即いておる王たち)は、自分たちで押えが利かず無責任極まりない力に困惑する阿呆の役を演じる代議員たちに取り巻かれておるのじゃ。この力は、宮殿内に吹き込まれてきた恐怖支配に負うておるのじゃ。王たちには人民に近付く手だてがない。まさに取り巻き連中のド真中で王位に就いておる王たちは、もはや人民を受け入れ、権力を追い求める者たちに対抗する強い力を与えてやることができぬ。明敏な統治権力と人民の盲目の力との間に、双方ともがあらゆる意味を失うように、儂らは深い溝を設けたのじゃ。盲人と彼の杖のように、両者は離れ離れにされれば全くの無力となるのじゃ。

 権力を追い求める者たちを煽動して権力を誤用させるため、儂らは、すべての勢力を相対立させ、独立を得ようとする自由主義傾向を鼓吹するように仕向けてきたのじゃ。この目的に向って、儂らは如何なる形の企てでも指嗾教唆し、あらゆる政党に戦闘準備させ、如何なる野望の目的をも権威に対して向けるようにさせたのじゃ。国家というものを、儂らは混乱した問題の大群が争乱する競技場と化せしめたのである。ほどなく、混乱と破綻があまねく広がるじゃろう。

 あとからあとから出てくるおしゃべり屋たちが、議場と行政会議の場を討論会場に変えてしまったのじゃ。向う見ずなジャーナリストと破廉恥なパンフレット屋が毎日のように政府当局を攻撃するのじゃ。権力に対する悪口雑言はすべての制度を転覆させる最後の一太刀となり、ことごとくが狂乱した群集のめった打ちに会って空中に吹き飛ばされるじゃろうて。

 なべての人民は、奴隷や農奴として縛り付けられていたかつての時代よりもきびしく、貧困なるがゆえに重い労働の鎖につながれておるのじゃ。なんとかしてやつらはこの束縛から逃れようとするかも知れぬが、この重荷を取り除くことはできず、決して貧困からは脱却できぬ。儂らが憲法に書き込んだ大衆に関する権利というようなものは、虚構であって実際に使える権利などではないのじゃ。いわゆる「人民の権利」なるものは、単なる観念、実際生活では決して実現されるはずのない観念としてのみ存在することができるのじゃ。おしゃべり屋には無駄口をたたく権利があり、ジャーナリストには良いことも書くが阿呆なことを書きなぐる権利があるとして、生活の重荷に打ちひしがれ、重き犠牲に腰を二重に折り曲げておる労働者には、何があるというのかのじゃ。かつて労働者階級共は、儂らが説きつけたことに賛成し、儂らが権力の中に潜ませておいた儂らが代理人団の手下に賛成して投票した見返りに、儂らが食卓からパン屑を恵んでもらっただけで、憲法からは何の利益も得られなかった。貧者についての共和国の権利とは、皮肉以外の何ものでもない。なぜならば、ほとんど一日中働いておる労働者に必要なものは、憲法を使うことによっては全く与えられぬ。じゃが、その一方で、彼は仲間たちが打つ同盟罷業や主人が行う工場閉鎖によって、確実な生活の資をすべて奪われるからなのじゃ。

 儂らの誘導によって人民は、貴族階級を全滅させてしまったのじゃ。人民の福利と密接に結びついた貴族自身の利益の為に、貴族階級は人民の唯一の保護者であり養い親であったのじゃ。現今では、貴族階級の滅亡によって、人民は労働者の首に残酷無慈悲な頸木をつないだ守銭奴の手中に落ちたのじゃ。

 儂らは、労働者にわが戦列(社会主義者、無政府主義者、共産主義者)に加わるよう提案し、振りかかる圧迫からやつらを救出する救世主を買って出るのじゃ。儂らは、儂らがフリーメーソン員が言われなく唱えた(人類団結という)兄弟の定めどおりに、一貫して主義者たちを支援しておる。貴族は、法律によって労働者が提供する労働の恩恵を受け、労働者たちがよく食べ、健康で、強壮であるかどうかに関心を払っていたのじゃ。儂らは全く反対のこと(劣化、畜生共から生命を奪うこと)に関心を寄せておるのじゃ。儂らの権力は、労働者の慢性食料不足と肉体的虚弱を必要とするのじゃ。まさにそうしておいてこそ、彼は儂らの意のままに従うようになり、儂らに敵対する強さも意志もなくなり、自分たちの権威を見つけ出そうとはしなくなるのじゃ。王たちが正当に貴族に与えた権力よりも、さらに確実に労働者を資本の権利に従わせるのが飢えなのじゃ。

 飢えが引き起こす貧困と嫉妬と憎悪によって、儂らは群集を動かし、やつらの手を使って儂らが行く手を阻む者すべてを掃討するじゃろうて。

 全世界王が王冠を戴く時が至れば、同じ方法を用いて障害となるものをことごとく一掃するじゃろうて。

 畜生共は儂らの専門家たちの助言なしには、考えるという習慣を失ってしまったのじゃ。為に、やつらは、儂らの王国が実現したあかつきには、直ちに採択せねばならぬ必要欠くべからざることが見えぬ。すなはち、公教育の場においては、唯一単純かつ真実の知識、全知識の基礎を教えることが肝要であるということで有るのじゃ。それは、人間生活の構造に関する知識、社会存在のあり方に関する知識、労働には分業が必要であり、従って、人々は階級と身分に分かれねばならぬということなのじゃ。人間活動の実際にはさまざまな差異があって、平等などというものはありえず、なんらかの行為で階級全体に累を及ぼす者と、自分自身の名誉を傷つけるだけの者とは、法律の前では平等の責任を負うはずがないということは、万人が心得ておくことが肝要なのじゃ。畜生共には知らされていぬ秘密であるが、社会構造の真の知識は、身分とかれ離れた仕事をさせぬようにせねばならず、個々人に要求される仕事と受ける教育との落差が悩みの元にならぬように、万人に実地をもって示そう。この知識を完璧に身に付けたあかつきには、人々は進んで権威に服従し国家に指示された仕事を受け入れるじゃろうて。現状の知識と儂らが人民を育成してきた方向からいえば、印刷されたものを鵜呑みにし(儂らがやつらに誤りを吹き込んできたためと、やつら自身の無知のおかげとで)(これまでに考察した身分という身分に対して、全面的に憎悪を燃えつのらせるのじゃ。それは階級と身分の意味を全く理解しておらぬことから生じておるのじゃ。

 この憎悪は、「経済危機」の効果で数倍もの火の手を挙げるじゃろうて。経済危機たるや為替取引を中止させ、工業を停止させるじゃろうて。儂らは、自分たちが熟知しておる隠密な方法を総動員し、すべて儂らの手中にある金力の助けを借りて、大規模な経済危機を作りだし、それによって全ヨーロッパ諸国の労働者群集をいっせいにまとめて路上に放り出すじゃろう。これらの群集は、ただ単に無知であるがゆえに、揺籃時代から羨み妬んでいた連中を喜んで血祭りにあげ、連中の財産を略奪できるじゃろうて。

 やつらは「儂らのもの」には手をつけぬ。なぜなら、襲撃の時機を知っておるのは儂らであり、儂らは財産を守る手が打てるからなのじゃ。

 儂らは進歩こそがすべての畜生共に理性の支配をもたらすだろうと強調してきたのじゃ。儂らの専制は一分の隙もない独裁なのじゃ。それがいかに、炯眼厳格な方法によってあらゆる不満を鎮圧し、すべての制度慣習の自由主義を麻痺させるかを知るじゃろうて。

 一般大衆はあらゆる種類の利権特権は自由の名のもとに生み出されたと見ていて、君主がそれを握っておると思い込み、怒涛のように襲いかかったが、盲人のならいでおのずとあまたの石に蹴つまづく結果となり、案内人を求めて猛進したが、今さら昔の状態に戻ることはできず、儂らの足下に全権をゆだねてしまったのじゃ。フランス革命を想起していただきたい。それを「大革命」と名付けたのは儂らであった。その準備が秘密裡に行われたことを、儂らは熟知しておる。あの革命は全面的に儂らの手で遂行した一大事業であったのじゃ。

 その時以来、儂らは人民を幻滅から幻滅へと導き、その帰結として最終的には、やつらは、儂らが世界の為に準備しておる、シオンの血を受けた専制君主に、儂らにも頼らずしても賛同するに至るはずなのじゃ。

 今日儂らは多国家にまたがる勢力として無敵なのじゃ。何ものかが攻撃しようとも、儂らは他の国家に支援されるからなのじゃ。畜生共人民の底無しの無気力さ、力の前には腹這いになって這いつくばるが弱者には無慈悲、他人の過失には厳しく罪悪には寛容、自由社会制度の矛盾は認めようとせぬが思い切った専制者の強圧に対しては殉教者のように耐える。儂らの今日をあらしめたのは、畜生共のそれらの特徴に助けられたところが多いのじゃ。現在の首相という専制者のもとで畜生共人民は呻吟しておるが、かつてならその何分の一かの権力濫用でもあれば、王の二十人ぐらいは打ち首にしたじゃろうて。

 この現象、同じ性質の事象と見えることに対する人民大衆のこの矛盾撞着はどう説明したらよいのか?

 ここには厳然たる事実が有るのじゃ。現代の専制者たちはやつらの代理人を通じて、人民に向いこう囁くのじゃ。権力をこういうふうに使えば、国家には害を及ぼすが、崇高な目的には適っておるのだ。人民の生活保護、国境を超えた人民どうしの友情、連帯、平等の権利という目的にはな。言わずもがなのことではあるが、やつらは、これらすべては儂らの統治支配のもとで初めて実現するものだとは言っておらぬ。

 かくて人民は正しいものを罰し、不正なるものを許し、前にもまして、望んだことは何でも実現できると信じ込まされるのじゃ。このような事態のおかげで、人民はあらゆる種類の安定をくつがえし一歩一歩混乱を生み出しておる。

 「自由」なる言葉は、さまざまの人間集団に、あらゆる種類の権力、あらゆる種類の権威、さらには神や自然の掟に対してまで闘争することに入らせたのじゃ。このため、儂らが儂らの王国を実現したあかつきには、群集を血に飢えた獣に改造する暴力的概念であるこの言葉を、儂らは、目に触れる辞書からは抹殺するじゃろう。

 獣たちは血をたらふく呑んで腹がふくれると眠り込むので、鎖につなぐのはいとも容易いというのは事実なのじゃ。じゃが、血を呑まさねばやつらは眠らず、引き続き闘争を続けるじゃろうて。

 何をしたいのか解らない。戦略が見えないんだよなぁ。起きていることを皮肉の目で見てこれが「儂ら」の目的を達せんが為の戦術なのじゃ。と言いたいんだろうけど、起きていることの後追いなので、文字通りの支離滅裂な議定となっている。
(2004/07/01 コメント)

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