2001年07月15日

議定  5

王は我によりて支配する

国家機構のエンジンとは・・金なのじゃ。

 見せ物団体、言説混乱による疲労困憊、いたる所で腐敗が広まっておる社会、富者だけが詐欺同然の悪賢い奇策に富んだ社会、たるみ切った社会、道徳が進んで守られるのではなく懲罰厳罰によって維持される社会、信仰心や愛国心が無国境主義的信念に一掃された社会に、如何なる種類の統制支配なら適用できるか?

 あとで述べるような専制支配以外に、如何なる支配形態ならこのような社会にあてはめられるか?

 儂らは社会の全勢力をこの手に掌握せんがため強力に集中化した政府を樹立しよう。儂らは新たな法律によって、国民の政治生活すべてを手加減することなく律しようと思うのじゃ。それらの法律は、畜生共が許してきた寛大とか特典とかを一つづつ全部取り潰すじゃろうて。いかなる時にもいかなる場所でも、行動や言葉で儂らに盾突く畜生共を一人残らず一掃する立場で臨み、専制ということの強力さを遺憾なく発揮するのが、わが王国の特徴なのじゃ。

 朕が述べておるような専制は、時代の推移にはそぐわぬという意見も聞くが、事実は正反対であることを証明しようかのう。

 人民が王は神の意志を純粋に体現した者だと見ていた時代には、なんの不平不満も鳴らさずに王の専制権力に従ったのじゃ。じゃが、人民には権利というものがあるという考えを儂らがやつらの心に植えつけてからは、やつらは王座に座る者を単に普通の人間とみなし始めたのじゃ。「神権による王」の聖油は人民が見ておる前で王たちの額から消えうせてしまい、儂らが人民から信仰心を奪った時に、権力の強力な力は飛び散って公共の所有権となり、儂らがそれを押収したのじゃ。

 加えるに、巧妙に仕組まれた学説と詭弁により、社会生活の制約やその他ありとあらゆる方便により、あるいは、畜生共にはまるで解らぬ手段を動員して群集や個々人を支配する技術は、他の技術と相並んで儂らが支配の中枢である専門家がもともと手中にしていたものじゃ。分析、観察、精緻な計算に育てられ、この種の熟練技術に関しては儂らには肩を並べる者がいぬこと、練り上げられた政治行動と固い結束のどちらかでは儂らの競争相手がいぬのと同じなのじゃ。おるといえば、イエズス会だけは儂らと比べられるだろうが、儂らは無分別な群集の目には見える組織として存在するとは信じられぬように工夫してきたのじゃ。その裏で儂らは終始一貫秘密の組織を維持し続けてきたのじゃ。カトリックの首領であろうとシオンの血を得た儂らの独裁者であろうと、専制君主は専制君主であることに変わりはないのじゃ。が、神の選民である儂らにとっては、このことは無関心ではいられぬ。

 ほんの一時は、儂らが全世界の畜生共連合にうまくしてやられることもあったやも知れぬが、畜生共の間には今では決して取り返しのつかぬほど深く根を張った不一致があるので、儂らはついぞ危険にさらされずにおるのじゃ。儂らは、畜生共を宗教的・人種的憎悪によって個人も国民も対立反目応報を繰り返すように仕組んだのじゃ。このことを過去二千年にわたって営々と積み重ねてきたので、手が付けられぬほど劇しいものになっておるのじゃ。これが、儂らに腕を振り上げたとしても、支持してくれる国はどこにもただの一国もない理由なのじゃ。儂らに対抗する同盟を結べば自分が不利になることを、どの国も肝に銘じておるからなのじゃ。儂らはあまりにも強力である・・儂らの力を逃れおおせるものはないのじゃ。国家は儂らの蔭の関与なしには、ほんの些細な協定を結ぶことすらできぬようになっておるのじゃ。

 Per Me reges regnant.(王は我によりて支配する)のじゃ。預言者たちによれば、儂らは世界のすべてを支配すべく神自身に選ばれたのじゃ。神は儂らがこの使命を遂行できるように、儂らに天与の才を授けられたのじゃ。仮に反対陣営に天与の才が授けられたとしたら、儂らに闘いを挑んでいたであろうが、駆出し者というものはしょせん古くから定着しておる者には太刀打ちできぬ「のじゃ。儂らとやつらのと闘いは、この世が始まって以来見たこともないような熾烈を極めたものとなったじゃろうて。さよう! やつらの天才は現われるのが遅過ぎたのじゃ。すべての国家機構を動かす車輪はエンジンが駆動するのじゃ。エンジンは儂らの手中に有るのじゃ。国家機構のエンジンとは・・金なのじゃ。わが学識ある長老たちが創造した政治経済学は、長期にわたって資本に君主のような威信を与えてきたのじゃ。

 資本、それが束縛なく相携えて力を発揮するには、存分に工業と商業の独占がはかられねばならぬ。そのことはすでに世界のあらゆる隅々で、見えざる手によって実践に移されておることであり、そのことは人民を圧迫する助けとなろうな。今日では、人民を武装解除させることは、戦争に赴かせることよりも重要なのじゃ。さらに重要なことは、儂らの都合からいえば、人民の焔を抑えることよりも燃え上らせることなのじゃ。さらに重要なことは、他人の考えを根絶するよりは、その考えをすばやく掴みとり儂らに都合がよいように翻案することなのじゃ。儂らの役員会が採択しておる原理に次のことが有るのじゃ。非難によって大衆を意気阻喪させること、抵抗心をかき立てるまじめな思考をさせぬようにすること、心の力を空理空論の論争にそらさせること。

 いつの時代でも世間の人民は、個人も同様であるが、言論と行動とを混同してきたのじゃ。競技場で見ることに満足しておるが、約束されたことが実行されておるかどうかを考えてみようとする者はめったにいなくて、専ら見せ物を見るだけで満足しておる。のじゃ。そこで儂らは、人民の利益が進歩に向っておると声高く証明する見せ物を行う団体を作るじゃろうて。

 儂らは、あらゆる問題について、自由主義的な顔つきを装おって全政党に入り込み、聞き手が嫌になるほど喋り立てて、弁論に対する嫌悪を植え付けるじゃろうて。

 世論をわが方に引き寄せるには、あらゆる角度から意見続出させ、相反する説をいくつも並べ立て、ある期間、十分畜生共の頭を迷路に迷い込ませて、一番いいのは政治上のことには何も意見をもたないことだと思い至らせねばならぬ。政治のことは一般大衆には解らぬ。なぜなら、大衆は自分たちを導く者を通じてしか理解できぬからなのじゃ。これが第一の秘訣なのじゃ。

 統治に成功するのに必要な第二の秘訣は、次のことにかかっておるのじゃ。すなはち、広い範囲にわたり国民の欠点、習慣、情欲、市民生活の状態を増殖させ混沌に陥れ、その中にあっては自分がどこにおるのか見当がとれぬ有様にさせると、その結果、人民相互の理解ができなくなるのじゃ。これこそ別の意味で儂らにとっては有利なこととなるのじゃ。すなはち、諸党派の中に軋轢の種子を蒔き、まだ儂らに従わおうとせぬ集団を撹乱し、どの程度のものであれ儂らの仕事を妨害するような個人の企てに対して片っ端から気勢をそぐことになるのじゃ。個人の企てほどまたとなく危険なものはないのじゃ。その裏に天才があろうものなら、このような企ては、儂らが軋轢の種子を蒔いた人民何百万人にも勝る力を持つのじゃ。儂らは畜生共の社会の教育を指導する際には、やつらが何か創意を示す徴候があれば、いつでも気力を失って絶望してしまうように仕向けねばならぬ。自由奔放な活動というものは、別の自由奔放さに出会うと無力になる傾向が有るのじゃ。衝突すると、容易ならぬ精神的打撃、失望、意気消沈が起こるのじゃ。これらありとあらゆる手段を駆使して、儂らは畜生共を疲労困憊させたあげく、国境を越えた現実の力を儂らに提供せざるをえなくなるじゃろうて。その現実の力は、いかなる暴力も用いることなく、世界中の国家支配力を次第に吸収して、超政府を形作るのじゃ。今日の支配者たちに代わって、儂らは超国家管理機関という怪物を設けるじゃろうて。その手は鉗子のようにあらゆる方向に伸び、その組織は巨大な規模に広がり、世界中の人間という人間を制圧せずにはおかぬじゃろうて。

「自由奔放な活動というものは、別の自由奔放さに出会うと無力になる傾向が有る」 人間観察はなかなか上出来な「議定書」であるが、それが彼らの陰謀の助けになるとは限らないのだが..
(2005/09/24 コメント)
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