2001年07月09日

議定 11

立法府の「見世物」

 国家評議会[国政会議]は、いわば、支配者の権威につけた光背であり、立法府の「見世物」の役割として、支配者が出す法令案を編集する委員会と言ってもよいじゃろうて。

 時に、儂らが用意しておる新憲法の要項は次の如きものじゃ。儂らは、法、権利、正義を確立する。

立法府に示唆するかの如く、
一般法令と見せかけた大統領令、上院の命令、ならびに内閣の命令であるかの如く装おった国家評議会の決議により、ならびに
適切な時到らば・・革命という形で。

 儂らの行動計画の大綱は確立したから、国家機関をすでに述べた方針に従わせ、革命の完遂を促すべきあれこれの組合せの細目に入ろうかの。これらの組合せとは、新憲法発布の翌日からは、新聞報道の自由、結社の権利、信教の自由、その他あまたの事柄は、人間の記憶からは永久に抹消されねばならぬか、急激な変更が加えられねばならぬということを意味するのじゃ。儂らが即刻全命令を公布できるのは、まさにその瞬間のみなのじゃ。それ以後では、顕著な改革案はことごとく危険なのじゃ。その理由は次の通りのじゃ。もしもその改革が峻厳さを増したものであり、幾分でも厳格かつ極限まで行ったのもならば、この先どこまで厳しい改革がなされるのかという恐怖で絶望感に囚われてしまうかも知れぬ。その逆に、最初よりも緩和した改革案を出すと、儂らが悪いことをしたのに気付いたかのように取られるし、そうなると、儂らの権威不可謬性の威信が失墜する。儂らが恐れを抱いて譲歩措置をとらざるをえなかったと言われるじゃろう。強制的という印象はぬぐえぬから、その為に儂らが感謝されることはない……以上二つとも新憲法の威信を傷つけるのじゃ。儂らが人民に叩き込まねばならぬのは次のことなのじゃ。憲法発布のその瞬間、世界の人民は革命が成し遂げた厳然たる事実に呆然とし、まだ恐怖心と半信半疑の気持に捕われておる時から、儂らがすこぶる強力、難攻不落、かつ、十二分過ぎるくらい力に溢れていて、いかなる場合であっても、やつらに一顧も与えず、やつらの意見や意志には一瞥も加えず、いかなるささやかな反抗の表明も示威も、時と所を問わず、一つ残らず粉砕する用意があり可能であり、儂らは取るべきものはすべて取り、いかなる事情にせよ、儂らはやつらと権力を分け合うことはありえぬ… …さすれば、やつらは恐怖に身震いして何事にも目を閉じ、事の成行きを最後まで見守るほかはぬじゃろうて。

 畜生共は羊の群であり、儂らは狼なのじゃ。狼が羊の群に入ったらどういうことが起こるか、御存知じゃろう。

 儂らの羊が目を閉じるのは、別の理由も有るのじゃ。儂らが平和の敵を打ち破り、あらゆる反対党派を黙らせたならば直ちにあらゆる自由を返してやると約束するからである……  やつらの手に自由が戻るまでどのくらいの時間を待ち続けねばならぬか、お話しする必要はあるまい。

 では、何が故に儂らはこのような政策そのものを立案し、事の真相を看破する時を与えず畜生共の心に吹きつけるのか?

 実際のところ、回り道をしなかったとしたら、四散した儂らの種族が直接目的を達成する方法には何があったのか?

 基本的には、儂らが作った秘密のフリーメーソン、かの家畜畜生共が存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかったフリーメーソンを作ったことが役立ったのじゃ。畜生共御一同様の目を晦ませるべく、儂らがフリーメーソン・ロッジの「見世物」一座にやつらを惹きつけておいたのじゃ。

 神は与え給うた。儂ら神の選民に、離散という、贈り物をして下さったのじゃ。それは万人の目からは儂らの弱さと映るが、儂らの強さは離散より生れ来たったのじゃ。それが今や全世界支配という戸口に到達しておる。

 今や儂らが据えた基礎の上に築くべきことは、余すこと僅かとなっておるのじゃ。

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