2001年07月08日

議定 12

反対のための反対という無政府主義

犯行の真相解明は、被害者とたまたま目撃した者だけに留めておくべき

「自由」という言葉には、いろいろの解釈があるが、儂らは次のように定義する・・自由とは法律で許されたことをする権利なのじゃ。この定義は通常は儂らだけに役立つ定義なのじゃ。なぜならば、法律というものが前に述べた計画に従って、儂らが思いのままに作ったり廃止したりできるものであるから、およそ自由と名の付くものはすべて儂らの手中に有るのじゃ。

 新聞については次のように扱うのじゃ。今日の新聞の役割とは何か?

 それは儂らの目的には有利な激情を爆発させ燃え上らせることに役立つのじゃ。さもねば、諸党派の利己的な目的に役立つのじゃ。新聞は多くは浅薄、不当、虚偽であり、大多数の人々は新聞が本来何の役に立つのか考えようともせぬ。が、儂らは新聞に鞍を置き馬勒を付け、しっかりと轡をはませるのじゃ。他の印刷物についても同様なのじゃ。儂らが新聞の攻撃から免れても、小冊子や書籍の攻撃の的にされたままだったらどうなるか?出版物の刊行は、今日ではそれを検閲するとなると大変金のかかることであるが、儂らは儂らの国家にとって得な財源に変えてしまうのじゃ。新聞等の発行団体や印刷所に許可を出す前に、特別印紙税と[損害に備えての]保証金を納めさせるのじゃ。これをやっておくと、新聞等のいかなる攻撃からも政府を守ることができるのじゃ。儂らに対する新聞等の攻撃などがあろうものなら、儂らは仮借なく罰金を科するのじゃ。保証の形をとるこのような印紙税、保証金、罰金といった方法は、政府の大いなる財源となるじゃろうて。政党の機関紙は多額の罰金を取られても平気であろうが、以上の手を打てば、儂らに対して重ねて攻撃をした場合は断乎発行禁止処分に付するのじゃ。儂らが政府の不可謬性の後光に指一本でも触れようものなら、何人も無事ですむことはありえぬ。発行を禁止するには、何ら理由も根拠もなく公衆を煽動したという申立て理由を使うのじゃ。一言御注意申し上げたいのは、儂らを攻撃するものの中には、儂らが設立した機関も含まれるということなのじゃ。じゃが、やつらは、儂らが予め改正しようと決めた部分のみを攻撃するのじゃ。

 一片の記事といえども儂らの検閲抜きには公表されることはないのじゃ。現在ですらすでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集められそこから配付されるようになっておるのじゃ。通信社は追って完全に儂らの傘下に入り、儂らが許可したものだけが一般に供給されるようになるじゃろうて。

 今日すでに儂らは畜生共の社会の人心をうまく掌握しており、やつら全員は世界の出来事を、儂らが鼻にかけてやった色眼鏡で眺めておるに等しいとしたら、また、儂らには、畜生共の阿呆どもが「国家の機密」と呼んでおることに立ち入るのに障碍のある国家なぞ一つも存在せぬとしたら、全世界王という最高の統治者として認められた暁には、儂らの立場はいかがになるのじゃろうか……

 話を新聞の将来に戻すかの。誰であれ、出版人、司書、印刷人たらんとする者は、その資格免許証を取得することを義務づけるのじゃ。その免許証は何か過失があれば即刻取り消しとなるのじゃ。こうしておくと、思想を伝えることが、儂らの政府の手中にある教育手段となるのじゃ。この教育手段を講じておけば、国民大衆にもはや脇道や、進歩の有難みなどといったたわけた夢の小道に迷い込ませはせぬ。儂らの中には、ありもせぬその手の有難みは、人民と政府との間に無政府状態を生じさせる妄想に直通する道であることを知らぬ者がおるじゃろうかの。如何となれば、進歩、いや、進歩思想は、あらゆる種類の解放運動を激励してきたが、限度ということを弁えなかったのである……いわゆる自由主義者は、実際はともかくとしても思想に関しては例外なく無政府主義者なのじゃ。自由主義者のどの一人も自由のお化けを追い求め、まっしぐらに放縦に、すなはち、反対のための反対という無政府主義に陥っておるのじゃ。

 定期刊行物の問題に移ろうかの。印刷物という印刷物に、一頁につきいくらという印紙税と保証金を課し、三十枚[六〇頁]以下の書籍はその額を二倍にするのじゃ。はやりのパンフレットはその部類に入れるのじゃ。一方で、雑誌の数は減らすのじゃ。雑誌というのは有害印刷物の中では最低なのじゃ。他方、著作人たちにあまりにも長大で値段もはるのでほとんど誰も読まぬような本を書かざるをえぬように仕向けるのじゃ。同時に、儂らの利益に適うように世論を導く儂ら自身の刊行物は廉価で、むさぼるように読まれるのじゃ。課税で無味乾燥な作家の野心はしぼみ、処罰が恐くて文筆家は儂らの軍門に降~るのじゃ。かりに儂らに文筆で抵抗する者が現われたとしても、著作物の印刷を引き受けてくれる人間がおらぬ。出版社が印刷してくれる前に、出版業者や印刷業者が官憲の許可を得ねばならぬ。これによって、儂らは儂らに対して向けられた奸計をすべて事前に知ることができるので、それが世に現われぬうちに抹殺することができるのじゃ。

 文学とジャーナリズムは、最も重要な教育手段のうちの双璧であり、それゆえに、わが政府は大多数の雑誌の所有主となるのじゃ。このことは、独立系新聞の有害な影響を緩和し、公衆の精神に甚大な影響をもたらすだろう……仮に十の新聞に発行許可を与えたとすると、儂らは三十に及ぶ新聞社を設立するのじゃ。しかしながら、公衆はそんな事情はゆめ知らず考えてみようともせぬ。儂らが発行する新聞はすべて、見た目には反対の傾向や意見をもち、それゆえに儂らに対する信頼を深め、儂らにとっては全き疑うことなき反対者を呼び寄せるのじゃ。このようにして、儂らの敵対者は罠にはまり、牙を抜かれるのじゃ。

 最前列に位置するのは、政府機関紙の性格をもった新聞じゃろうて。この種の新聞は、常に儂らの利益を擁護するが、それゆえに比較的影響は弱いのじゃ。

 第二列に位置するのは、半官半民の刊行物で、なまぬるい無関心層を惹き寄せるのが役割なのじゃ。

 第三列に位置するのは、見た目には全く儂らの反対者として設立されたもので、少なくともその紙上では、まさに儂らとは逆の立場に立つように見える論_説を掲載するじゃろうて。そこで儂らの本当の敵対者は、この疑似反対論を真説と思い込み、自分の手の内のカードを見せてしまうのじゃ。

 儂らの新聞全体では・・もちろん、憲法が存続する間での話じゃが・・およそ考えられる如何なる傾向も・・貴族的、共和国的、革命的、さらには無政府主義擁護的なものまでも・・持っておるだろう……インドのヴィシュヌ神の像のように、これらの新聞は百本の手を持っていて、その一本一本の手が世論のどれか一つに指を触れるのじゃ。脈拍が早くなると、これらの手は儂らの目的に向って世論を導くのじゃ。熱に浮かされた患者は理性の判断力を失い、暗示にかかり易くなるのじゃ。自分たちの陣營の新聞の意見を述べておると思い込んでおる阿呆どもは、誰ぞ知らん、儂らの意見や儂らが望んでおる見解を鸚鵡返しに唱えておるだけなのじゃ。自分の党派の意見に従っておると虚しくも熕じつつ、実際には儂らがやつらに広げておる旗に従っておるだけのことなのじゃ。

 以上の意味で、儂らが新聞軍団の指導にあたっては、格別細心の注意を払ってこの問題を組織せねばならぬ。中央新聞局という名称のもとに、儂らは文筆家の会合を設け、そこに儂らの覆面の代理人を送り込み、指令と当日の標語を示すのじゃ。問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をして、ただ単に、当初の公式表明を補足する材料を提供する目的で、儂らの機関は、儂らの公式の新聞に対して見せかけの一斉射撃を浴びせるのじゃ。

 儂らに対するこの集中砲火は、ほかの目的、すなはち、言論の自由はまだちゃんと存在しておると納得させ、儂らが代理人に、反対者たちは儂らの指示に対して、実のある反対意見をこれっぱかりも示さなかったからには、儂らに反対する機関はみな空騒ぎしておるだけではないかと断言する材料を提供するのじゃ。

 公衆の目には感知されぬが絶対確実なこのような組織方法は、公衆の関心と信頼をわが政府に惹きつけておくのに最高の方法なのじゃ。この方法のおかげで、儂らは公衆がどう受け取るかによって、必要に応じて時折、政治問題に対する感情を刺激したり鎮静したり、説得したり混乱させたり、今日は真実明日は虚偽、事実に即して立論したと思えばその反論を掲げたりするが、常に儂らが足を踏み出す前に地面の様子を細心の注意をもって調べるのである……儂らの敵対者は、前記の方法で新聞を操作することができず、十分かつ決定的な意見を開陳する新聞という最終的な手だてを欠いておる以上、儂らの勝利は確実この上もないからの。よほどのことでもねば、反論の必要もないくらいなのじゃ。

 儂らが新聞の第三列に放つ試射は、必要とあらば半官半民の紙上を通じて精力的に駁論するのじゃ。

 フランス新聞界のみではあるが、今日でもすでにフリーメーソンの連帯行動を物語る形態があり標語も持っておるのじゃ。すべての新聞機関は、結束して職業上の秘密を守っておるのじゃ。古代の卜占官さながらに、その成員は、過去に解決ずみの問題でない限り、情報源を漏らしたりはせぬ。ジャーナリストならただの一人もこの秘密を暴露するような愚挙を犯しはせぬ。というのは、どの一人をとってみても、かねて過去に不行跡な事などをせぬ限りは、文筆仲間に入れて貰えぬからである……秘密を漏らしたりしようものなら、直ちに過去の不行跡が暴露されるというものじゃ。秘密が少数の間でだけ知られておる限りは、ジャーナリストの権威は大多数の人々に行きわたり・・群集は熱狂的に彼に従うのじゃ。

 儂らの計画は特に地方に及ぶのじゃ。いかなる瞬間にも首府に希望と欲求を浴びせられるよう地方の炎を燃え上らせることが必要不可欠なのじゃ。儂らは首府に向って、これが地方独自の希望であり欲求であると焚き付けるのじゃ。当然のことであるが、地方世論の情報源というのは、同一無二のもの・・儂らが指示しておるものなのじゃ。必要なことは、儂らが十二分に支配力を得るまでは、儂らの代理人団が組織した多数者、すなはち地方の意見で首府を窒息させておくべきなのじゃ。必要なことは、決定的瞬間には首府は既成事実をとやかく言える立場にはないということなのじゃ。それは単純な理由であって、各地方の大多数の世論が受け入れておる事実だからで有るのじゃ。

 儂らが完全な主権を手中にするまでの過渡期の新体制の時期まで進んだら、もはやどの種類の新聞にも社会腐敗を暴露する記事は載せさせぬ。新体制下では万人が完全に満足しておるから犯罪を犯す者はいぬと信じさせることが必要である…… 犯行の真相解明は、被害者とたまたま目撃した者だけに留めておくべきであって、それ以外には必要ない。

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