2001年07月07日
議定 13
マスコミを使って愚民政策の議
儂らは新聞を使って芸術、スポーツなどありとあらゆる種類の競争を始めるのじゃ
日々のパンが必要な為に、畜生共は余儀なく沈黙を続け、儂らの従順な召使になっておるのじゃ。儂らの新聞が畜生共の中から選んだ代理人に、公文書であからさまに触れるのは都合の悪い問題を議論するようにさせるのじゃ。その間、儂らは論議の渦の真中で静かに聞いていて、儂らに必要な部分を取り込み、それから公衆に既定事実として提示するのじゃ。いっそう改善したものを説明するのだから、何人も一度定めたことを撤回せよとは言わぬ……そして間髪を入れず新聞は世論を新しい問題の方に向けさせる(儂らは人民を何か新しいものを求めるようにずっと馴らして来たではないか)のじゃ。頭が足りない運命の小売屋たちは自分の議論する問題が髪の毛一筋も解っていぬということさえも理解できずに、新問題に飛びついてしまうのじゃ。政事の諸問題は、これを考案した大先達、過去何年にもわたって先導してきた人々でねば、誰も参入できぬ。
以上のことからお解りのように、群集の意見を先導するには、儂らの仕組の働きを良くするだけで事足りるのであり、儂らがやつらに賛同を求めるのは、あれこれの問題についての儂らの行動ではなく言説であることに気付かれるじゃろうて。儂らは常に、希望に導かれ確信に基いてすべての事業にあたり、公共の福利に奉仕しておるのであると公言しておる。
厄介になるかも知れぬ連中に政事の諸問題に首を突っ込ませぬようにするのに、儂らは政事に代わるものを熱心に勧めておるのじゃ。すなはち商工業の問題なのじゃ。この分野でなら、どれほど騒いでもよろしい! 政事に代わって何か没頭できるものがあれば、群集は政治活動の類いから手を放して一服盛ることに異存はないのじゃ(政治活動は、畜生共の政府と一戦交えさせる為に、儂らがやつらに施した訓練であった)のじゃ。商工業問題においては、儂らは政治そっくりの事をやっておるかのように思うように処方して有るのじゃ。やつらがかかずらわっておることを解き当てさせぬように、儂らは娯楽、競技、ゲーム、色事、遊び場をあてがって、更に政事から遠ざける… …そのうち、儂らは新聞を使って芸術、スポーツなどありとあらゆる種類の競争を始めるのじゃ。こういうことに関心が向けられれば、儂らがやつらと争わねばならぬ問題から、やつらを完全に遠ざけるじゃろうて。ますますやつら自身の意見を反映したり形にしたりすることが難しくなるに従って、人民は儂らと同じ口調で語るようになるのじゃ。なぜならば、儂らだけがやつらの考え方に新しい方向付けを示しておるからである……もちろん、儂らとは表面ハ的には無関係の人々を通じてであるがのじゃ。
儂らの政府が承認されると、自由主義者、空想論者の役割は最終的に終るのじゃ。その時まで、やつらはたっぷりと儂らに奉仕し続けてくれるのじゃ。その為に、儂らはやつらの頭をあらゆる種類の空疎な内容の空想的理論、今では進歩と呼ばれる理論の方に引っ張り続けておるのじゃ。が、儂らは畜生共の空っぽ頭を進歩転換させることに成功したことはなかったのじゃ。畜生共の中には、物質的発明の問題ではない所で進歩を追い求めたところで真理からは遠ざかるばかりだということが判る人間はおらぬ。なぜなら、真理は一つであり、そこには進歩が入り込む余地はないのじゃ。進歩、それは誤った推論に基く思想のようなものであり、神の選民であり、真理の保管人である儂らの外には何人も知らぬ真理を覆い隠すのに役立つのじゃ。
儂らの王国が実現した暁には、儂らの弁士たちは、人類をすったもんださせてきたこの大問題を解義して、儂らの慈悲深い支配の下で決着を付けさせるじゃろうて。
その時になって、これらの人々は一人残らず、幾世紀にもわたり何人も推測もしなかった政治計画に従って、儂らに踊らされていたのだということを、いったい誰が疑うじゃろうかの。
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