2001年07月06日

議定 14

一神宗教以外いかなる宗教の存在も許さぬ

嫌悪感を催おす文学芸術を創らせた

 儂らが王国を築く時は、儂らの唯一神宗教以外いかなる宗教の存在も許さぬ。儂らの運命は選民としての儂らの地位によりその唯一神と結びつき、その儂らの運命は神を通じて世界の運命と結び付いておるのじゃ。ゆえに、儂ら以外のあらゆる形態の宗教を一掃するのじゃ。その結果、今日見られるような意味での無神論者が誕生するとしても、過渡期に限る現象であって、儂らの目的には妨げぬ。むしろ儂らが説くモーゼの教えに耳を傾ける世代の前兆として有用じゃろうて。モーゼの教えは牢固として完璧入念なる教義であり、それなるがゆえに世界の全人民を儂らに従わせてきたのじゃ。そこに、モーゼの教えの隠された神秘の力があることを力説しようかのう。後にも述べるように、モーゼの教えの感化力は、すべてその神秘の力に立脚しておる……次いで、あらゆる機会をとらえて、儂らの慈悲深い支配と過去のそれとを比較する論説を公表するのじゃ。数世紀にもわたる震盪動揺の果てに訪れた安穏静謐が、儂らの与えた恩寵によって、さらなる安堵へと高まるのじゃ。儂らは最もはっきりとした口調で、畜生共の政府が犯した過ちを描いてみせるじゃろうて。儂らがやつらに対する嫌悪の情をそそるので、人民は、かの自由を振り回す権利などよりも、農奴制のような状態でよいから安穏の方を好むのじゃ。自由の権利は、人間性に拷問をかけ、まさに人間存在の根源を疲弊させ、人民は自分が何をしておるのか解っていぬ一群のこすからい山師たちの餌食となったのである……儂らが畜生共政権を覆すにあたっては、畜生共を煽動し幾たびか無益な政変を起こさせたのじゃ。人民は疲れ切ってしまい、またまた新たな騒動や苦難をかぶるよりも、少々の辛抱をしてもわれの言うことを聞いておる方がましだと考えるじゃろうて。

 同時に儂らは、畜生共の政府の誤ちの歴史を看過容認はせぬじゃろうて。畜生共の政府は何世紀にもわたって、人類の真実の善性を構成する要素を何一つ理解せず、錯覚した社会改善を追い求め、その改善の結果さらに悪くなり、人間生活の基盤である一般関係が決して改善されぬことに全く気付いたことがなかったのじゃ。

 儂らの原理と方法の総体は、儂らがやつらに提示し解義したように、死に絶え腐敗した古い秩序の社会生活とはまばゆい対照をなす事実の中に横たわっておるのじゃ。

 儂らの哲学者たちは、畜生共の種々雑多な信仰の欠陥を洗いざらい論じるが、真実の視点から儂らの信仰に口をはさむことは誰もやらぬじゃろうて。儂ら以外の誰もこの宗教のことは知らぬし、儂らはその秘密を明かすような裏切りはやらぬからなのじゃ。

 いわゆる先進文明国の中に、儂らは愚劣極まる、卑猥不潔な、嫌悪感を催おす文学芸術を創らせたのじゃ。儂らが権力の入口に立ってしばらくの間は、儂らの演説、集会プログラムと対比させつつ、その種の文学を奨励する積りなのじゃ。こうすると、儂らの高尚な一画とはあまりにも違うことが歴然とするだろう……畜生共の指導者になるべく訓練された儂ら賢人は、講演演説、事業研究計画、回想録、論説著作活動に携わるじゃろうて。儂らはそれらの作品を用いて、畜生共の人心を感化し、儂らが定めてやった知識を摂取する方向に導くのじゃ。

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