2001年07月05日
議定 15
自由主義を一掃する
畜生共の社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいた
世界各地に同時にクーデターを勃発させ遂に決定的に儂らが王国に突入し、現存する政府という政府が誰の目にも没落したことが明らかになった時(これが実際に起こるには少からぬ時間、恐らくまるまる一世紀はかかるだろう)、儂らに対する陰謀の類いは絶対に存在を許さぬように監視する仕事が有るのじゃ。この為には、儂らの王国到来に反対しいやしくも武器をとる者は一人たりとも容赦なく殺戮するのじゃ。秘密結社に類するあらゆる種類の新団体結成もまた、死をもって処するのじゃ。儂らが認めておる現存秘密結社は、役立つものも役立ったことのあるものも、一率に解散させ、欧州から遥か離れた地方へ追放するのじゃ。あまりにも事情をよく知り過ぎた畜生共のフリーメーソン員にも同断の処置を執るのじゃ。なんらかの理由でこの処置を執らなかった者に対しても、追放の恐怖で脅迫しておくのじゃ。儂らの支配の中心地である欧州からは、秘密結社員全員を追放に処する法律を作成し公布するのじゃ。
この決定は変更できず、これに対する控訴は許さぬ。
畜生共の社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るよりほかはないのじゃ。苦しむ者に一顧だに与えてはならぬ。未来の幸福の為に苦しみを引き受けさせるのじゃ。いかなる犠牲を払ってでも福利を達成することこそ、如何なる政府でも自分たちの存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行せねばならぬ義務なのじゃ。支配を揺ぎぬものとする原則は、権力の後光を輝かせることにあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの・・神に選ばれた・・から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるというような、不退転の威厳に満ちた力を発揮しておることが要諦なのじゃ。近年までは世界中では、ローマ教皇を数に入れねば、帝政ロシアが儂らの唯一の競敵であったのじゃ。記憶に留めていただきたいのは、イタリアなのじゃ。流血にまみれたイタリアであるが、その血を注いだスッラに対しては、髪の毛一筋も手を触れることができなかったのじゃ。彼は人民を虐げていたにもかかわらず、大胆不敵なイタリア帰還をやってのけ、不可侵性の網に囲まれ、人民の目には神と崇められたのじゃ。人民は大胆勇敢な者には催眠術をかけられて、指一本触れぬものなのじゃ。
しかしながら、儂らの王国を実現するまでの期間は、儂らと正反対のことを行うのじゃ。フリーメーソン支部を世界各国にどしどし増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れるのじゃ。それというのも、それら支部は重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからなのじゃ。フリーメーソンの全支部は、儂らだけが承知していて他には絶対に誰も知らぬ中央管理機構の下に置くのじゃ。その機構を構成するのは、儂らの学織ある長老たちなのじゃ。支部には代表者がおるが、やつらは上記のフリーメーソンの真の管理機構を覆い隠す為に置かれるものであり、標語や計画は蔭の管理機構から発せられるのじゃ。これらの支部に、革命的分子や自由主義的分子をすべて集めてしっかり結び合わせるのじゃ。この中には社会の全階層が含まれるのじゃ。極秘の政治計画なるものも儂らは熟知しておるし、計画が立てられたその日のうちに儂らの指導部の手に入手されるのじゃ。国際警察や各国警察の代理人はほとんどこれら支部に参加しておるが、やつらは不法な者に対して特殊な措置を講じるのみならず、儂らの活動を隠蔽し、しかも不平不満を起こさせる口実を提供してくれるので、儂らにとっては掛け替えの無い存在なのじゃ。
秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、やつらを御して儂らが仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のおることではないのじゃ。その世界で何かゴタゴタめいた事が起こったとすれば、あまりにも強固になった団結を破るべく儂らが少々撹乱せねばならなかった場合なのじゃ。じゃが、計画遂行の中心には、これ以上信頼できる人物はいぬという儂らの下僕が先頭に立っておるのじゃ。儂らだけがフリーメーソンの活動を指導し、他の誰にも当らせぬのは、極めて当然のことなのじゃ。畜生共に至っては無知蒙昧であって、どこへ行くべきか、活動の一つ一つの最終目的は何であるかを知っておるのは、儂らだけだからの。畜生共は、通常、やつらの考えを実行する際に、やたらと自分の説に固執し、自説の一時的満足にしか頭が回らぬ。しかも、その自説たるや、儂らがやつらに吹き込んだものであって、本当に自分が考え出したものではないことに気が付きもせぬ。
畜生共は、物好きからか、あるいは、大きなパイを一口で食らおうとしてフリーメーソンに入ってくるのじゃ。中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させる為に、耳よりな情報を仕入れようとして入ってくる者もおる。やつらは成功と拍手喝采に飢えておるが、をの成功や拍手喝采こそは、儂らが気前よく振る舞ってやつておるのじゃ。儂らがそういう大盤振舞いをするのは、やつらが持っておる鼻持ちならぬ自惚れを利用するためなのじゃ。その自惚れというのは何が原因かというと、自身が口に出しておる思想は絶対的に自分のものてあり、借り物などということはありえぬと自信満々で、儂らが示唆したことを丸呑みにする傾向に起因する……諸氏の想像を越えることであるが、畜生共の最も賢い者を無邪気に自惚れさせたり、ちょっとした不首尾で意気消沈させたりするのは、いとも容易いことなのじゃ。同時に、拍手が止まったに違ぎぬといった些細な不成功であってもやつらは簡単に落ち込みもするし、次の機会には成功させてやると言えば、すぐ奴隷のように卑屈になってくる… …際立って儂らの計画を実行さえできれば成功不成功を問わぬのに、際立って畜生共は成功さえすれば計画はどうなっても構わぬ。このようなやつらの心理のおかげで、儂らは大いにやすやすと思うがままにやつらを操れるのじゃ。やつらは見た目には虎じゃが中味は羊であって、風が通り抜けて行く頭の持主なのじゃ。儂らはやつらに「集産主義」という一種の思想の玩具をあてがって、個性の違いをそのおもちゃに吸収同化させてやったのじゃ。
やつらは、このおもちゃが最も重要な自然の法則を真向うから冒涜するものであることを、一度も考えたことがなかったし、これから先も考えようともせぬじゃろうて。天地創造の初めから、自然は明白な個性の違いを弁えさせるべく、あれとこれとを違うように作ったのじゃからな。
こんなにも儂らがやつらを明きめくらにさせられるというのは、畜生共の頭が儂らと比較してお粗末である髀リ拠、それも明々白々の証拠ではぬじゃろうかの。儂らの成果が約束されておるのは、主にこのためなのじゃ。
それにつけても、なんと儂らの古代の賢者長老たちには先見の明があったことかのじゃ。長老がたは言われた、大事に達せんとせば手段を選ぶなかれ、犠牲を厭うなかれ、と ……儂らは畜生共という家畜の群にいかほど犠牲が出ようともさらさら厭うものではない。さりながら、わが民の犠牲も数多くに上ったが、今日儂らはこの地上で夢見ることのできなかったような位置を獲得したのじゃ。儂ら全体の数から言えば、儂らの犠牲者の数は比較的少ないが、やつらのおかげで民族の破滅は免れたのじゃ。
何人も避けられぬ終局は死なのじゃ。どうせ避けられぬものならば、新秩序の建設者である儂らよりも、建設の邪魔をする人間に早く回してやった方がよろしいのじゃ。儂らは、同胞のほかには誰も気付かぬように、本人自身でさえも死刑宣告されたことが判らぬように巧みにフリーメーソンを処刑するのじゃ。必要とあれば全員あたかも自然死のごとく息を引き取るのである……そのことが解っていても、同胞はあえて抗議はせぬ。かような方法を用いて、儂らはフリーメーソンの中から作戦計画に敵対する者を根こぎにしてきたのじゃ。儂らは畜生共には自由主義を説くが、同時に一方では、わが民や儂らの代理人たちにはひたすら恭順に服させるのじゃ。
儂らの力が及ぶところでは、畜生共の法律は最小限度にしか適用せぬようにしてきたのじゃ。法の尊厳威信なるものは、その分野に流し込んだ自由主義的な解釈を駆使して存分に失墜させてきたのじゃ。最重要かつ根本的な事項や問題は、儂らの口をはさんだとおりに裁判官が決定し、儂らが畜生共の政府機関に示したことに従って事を裁定するのじゃ。もちろん、儂らが直接やつらと接触するのではなく、儂らの道具である人士・・新聞その他の意見として・・であるが……上院議員や内閣の中にも儂らの助言を一も二もなく聞く者がおるのじゃ。畜生共の空っぽ頭には、分析したり考察したりする能力、ましてや事態がどういう結果になるかを予測する能力はさらさらぬのじゃから。
畜生共と儂らの間のこの能力の差違こそが、畜生共の空っぽ頭と対比して、儂らが神の選民として、また、高い人間性をもつ運命が定められておるゆえんが明白に証明されるのじゃ。畜生共の目は開いていても何も見ていぬし、何も創造せぬ(恐らく物質的なもの以外は)のじゃ。このことをもってしても、自然は儂らが世界を導き支配するように創造したことが明白なのじゃ。
儂らが公然と世界に乗り出し、恩恵を施す折には、儂らの法律はすべて、いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何びとにも完璧に解る、簡潔、明白、確固としたものであるじゃろうて。そこに貫徹させておくべき原則は、官憲に対する服従であり、この原則によって荘重高潔なものとなるのじゃ。こうして最高権力者の権威の前には最下層の者に至るまで責任を負う結果、権力の濫用は行われなくなるのじゃ。次席以下の権力濫用は、一人の例外もなくとうてい再犯ができぬほど容赦なく峻厳に処罰を受けるじゃろうて。儂らは国家機構の円滑な運営をはかる為に、官憲に対しても事細かに点検ずるじゃろうて。一部分の腐敗はあらゆる所での腐敗を惹起するのじゃ。一片の不法行為、一片の権力濫用といえども処罰の見せしめをさせはせぬ。
犯罪の隠蔽、行政の怠慢・・この種の悪事はすべて、最初に峻厳な処罰を課すれば以後は影をひそめるじゃろうて。儂らの政権の後光は適切な罰則すなはち、至高の威信に対しての侵害は軽微なものであっても、とりわけ私利と結びついた場合は、厳罰を課ロすることでなければならぬ。厳罰を蒙る者は、たとい過失の度合いに比べて罰が重過ぎるとしても、主権、政綱ならびに法を擁護する行政の戦場で倒れる兵士と見做して然るべきであり、公共乗合馬車の手綱を執る人間が、公道を外れて私用に馬を走らせたら、如何なる人間であろうとも許されぬ。たとえば、裁判官たちは寛容なところを見せたくなるが、それは法の正義を破ることになるということを弁えねばならぬ。法は逸脱堕落に罰を課して見せしめにする為に作られたのであって、裁判官の徳性を引けびらかすためのものではない……そんなに徳性を引けらかしたければ私生活でやればいいのであって、人間生活教育の公共の場を使うべきではないのじゃ。
儂らの法曹人は五十五歳に達すれば現職を退くのじゃ。第一の理由は、老人は年をとるほど先入観に囚われ易くなり、新しい方向にはなかなか向かなくなると。そして第二には、人事刷新によって弾力性を確保するのに役立つこと、それによって儂らの強制力が更に容易に働くようになるからなのじゃ。自分の椅子に留まりたい者は、留まるに値するように盲目的に服従せねばならぬじゃろうて。概して言えは、儂らは次のよ謔、な人々の中からのみ裁判官を選ぶのじゃ。すなはち、自分の役割は法を執行し違反する者を処罰することであって、当今の畜生共が空想するように、国家の教化的な仕組を犠牲にして自由主義の夢のまにまにさまようことではないということを完全に理解しておる人間からである……この人事刷新の方法は、同じ業務に携わる人間の妙な結束心を噴き飛ばし、人民の運命がかかっておる政府の全問題にやつらの関心を結び付けるのじゃ。若い世代の裁判官には、人民の間に確立した儂らの秩序を乱す畏れのあることは、如何なるものでも見逃さぬように訓練する必要vが有るのじゃ。
当今畜生共の裁判官は、自分の職責に対する正しい認識が欠如しておるので、犯罪といえば情状酌量するのじゃ。今日の支配者が裁判官を任命する際に、義務の観念と裁判官に要求される職責に対する自覚を叩き込まぬから、こういうことになるのじゃ。野獣が餌を探しに子どもに出してやる時のようなもので、畜生共は職務の性質や目的を説明もせずに高い地位に就けてしまうのじゃ。それでやつらの政府は、自分の行政を通じて自分自身の力のせいで、滅亡の道を歩んでおるのじゃ。
やつらがやっておることの結果を、儂らの政府の教訓としようではないか。
儂らの国家体制の為には、服従する訓練が必要な政府機関の重要位置からは皆、自由主義を一掃するのじゃ。かかる位置には専ら行政支配の為に儂らが訓練してきた人間のみを据えるのじゃ。古い官吏を解雇したら財務省の負担増加になるのではないかと案ずる向きがあろうかと思うが、その問題に対してはこうお答えしようかのう。第一に、解雇した職員には職を失った代わりにいくつかの民間企業に回してやるのじゃ。第二に、世界中の金は儂らの手中に集中したのであるから、経費が嵩む虞れはないのじゃ。
儂らの絶対主義は万事にわたって論理が貫徹しておるので、どの判決一つをとってみても、儂らの最高意志は尊重され一点の疑念もなく遂行されるのじゃ。あらゆる種類の不平苦情を無視し、あらゆる種類の示威抗議には制裁を加えて見せしめにするのじゃ。
儂らは控訴権のような、決定を覆す権利を廃棄するのじゃ。そういうことは専ら儂らの一存・・支配する者の判断に預けられるのじゃ。儂らが任命した裁判官が誤った判決を下すことがある、というような考えを人民に与えることは断じて許してはならぬ。しかしながら、万一判決に変更を加える必要が生じた場合は、儂ら自身が決定を廃棄するが、直ちに裁判官に二度と同種の過誤を犯さぬ旨の約束をさせ、自己の義務過怠に懲罰を課して見せしめにする……重ねて申し上げるが、儂らの行政においては一段階ごとに、一応は儂らを満足させてくれておる人民に密着してよく監視する必要があり、善良なる政治は善良なる官吏を要求する権利があるということを銘記していただきたいのじゃ。
儂らの政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するじゃろうて。儂ら民族と儂らの国民は、王という人物に、王との関係はもとより、国民が望むこと、国民がやっておること、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使う父の姿を見るじゃろうて。安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は完全にこの考えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、とりわけ、儂らが任命した者たちが私利私欲の為にではなく、ひたすら誠実に命令を実行しておるだけであることを知ったときには、儂らが王を神と崇めて帰依献身し、その専制に従うじゃろうて。やつらは、わが子に義務と服従を植え付けるべく訓育した賢明な両親がなすように、儂らがやつらの生活万般を取り締まることに欣喜雀躍するじゃろうて。儂らの秘策という視点から眺めると、世界の人民たちはまだまだ成年にも達せぬ子供の類いであり、各国政府もまたまさにその段階なのじゃ。
先刻御承知のように、朕は権利と義務に対する絶対支配についてお話し申し上げたのじゃ。義務を実行させる権利は、臣民に対する父たる政府の第一の責務なのじゃ。人類を天然が定めた秩序すなはち服従に立脚させることは、強者の権利なのじゃ。この世の万物は、人間でないものでも環境か、そのもの自身の本性か、いずれにしてももっと強い者に服従させられておるのじゃ。であるからこそ、善を実現する為には、儂らはさらに強い者になろうではないか。
儂らは確立した秩序に違反する者は何びとでも、躊躇なく犠牲にせざるをえぬ。見せしめに悪に懲罰を加えることは、一大教育課題なのじゃ。
イスラエル王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となるじゃろうて。そこに達するまでに王が王が供する犠牲は、畜生共の政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らぬ。
儂らの王は絶えず人民と接し、特使を通じて演説させ、その名声は全く同時間に全世界に報道されるじゃろうて。
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