2002年08月22日

古代都市炎上

石造りの古代都市が幾日も炎上したとは?

私は古代史ものが好きでよく読むのだが、都市が攻略されるところで、都市の炎上がよく語られる。何日も時には一月以上も炎上したなんて表現が出てくる。日本のように木と紙でできた建物ならば、建物が燃えるのは解るが、古代ギリシャの都市は石造りだったはず。中東の都市でも石や煉瓦を使った建物のはずで、その構造物自体が燃えることはなさそうだ。ところが、歴史の本にはあっさりと「戦火に焼かれて」なんて言う表現があるし、実際、発掘された遺跡には火災の跡があって、数千度の高温にさらされた石や土器などがたくさん見つかっている。

もし木で造られた建物なら燃えたとしても、数日。何日も燃え続けることはなさそうだ。いったい、石造りの都市の何が燃えたのだろうか?最近その答えらしきものに出会った。燃え続けたものは石油なんだそうな。

中東の多くの箇所では石油が自噴していて、また、付近の地下で自然の蒸留施設のようなしくみがあって、天然のガソリンがでていたところもあるという。これらの油井の確保は、水脈の確保、カレーズの掘削などに並んで重要な要素だったようだ。蒸留することによっていろいろな成分がとれ、生活物資から戦略物資まで生かされていたのは、古代社会も現代社会もあまり差さがないというところか。

では、戦時においてこの石油はどのように使われたのだろうか。ある記述には「数千樽」もの石油が運ばれたとある。前線の兵士たちの武勇伝はよく伝わっているが、軍隊が戦闘を継続するための最も重要な機能は兵站にある。兵站の担う役目は前線に武器や食料を届けたり、負傷兵の救護、代替兵を送り込んだりと、前線の機能を維持することにある、その中に「石油」も含まれていたというのだ。攻略した都市を壊滅させるために町中に石油をまいて火を放ったというわけだ。町中のがれきなどに隠れて生き延びる敵を壊滅させるのが目的だったのだろう。また、破壊し尽くされた都市は見せしめの意味も大きかったに違いない。あるいは、城に籠城するときには、城壁をあがってくる兵士に火をつけた石油を浴びせかけたという話も伝えられている。

「神々の指紋」に代表されるような「超古代もの」も大好きで読む事が多いのだが、いかんせん彼らの論理には飛躍が多い。そこが、「超古代もの」がおもしろいところでもあるのだが。石造りの街に数千度の高温にさらされた箇所が見つかったり溶けたガラス食器が見つかったりすることがそのまま古代の核戦争とはつながっていかないようだ。残留放射能ありとの報告もあるが、長時間高温にさらされると放射性物質を含んでいる石ならば放射能を発するなっんてこともあり得るのかしらん?


2002-08-22
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