2006年09月06日

東急複々線計画

これは1985年頃あるルートから入手した東横線、目蒲線複々線の計画図。
現在と同じ部分もあれば違うところもあって、この計画図はまだたたき台レベルのものだろう。
この当時の発想は、方向別複々線を構成し、緩急別に線路を使い分けることで、列車の高速化とそれに伴う総輸送量の質的な増加とが念頭にあったと思われる。




しかし、現在の状況は、単純に別線複付タイプのダイヤであって、速度の向上やそれに伴った輸送量の質的な増加はない。ダイヤの乱れが他方の線区に影響を及ぼさないということ以外のメリットはない。

なぜこんな効率の悪い複々線を構成するに至ったかを考察するには、東急成立の歴史を考えてみる必要がある。東急は小鉄道を多数買収することで拡大してきた歴史がある。たとえば、大井町線と池上線の接続駅である「旗の台」は長い間、もともと別の鉄道であった名残を色濃く残していた。
歴史的過程が、この東横線の複々線の現在にも名残を残していると言えるだろう。路線別セクト主義とでも言う社風だ。

さて、この計画図で興味深い点がある。現在の東横線複々線区間は武蔵小杉までであるが、この図では、一部二重高架(?)で元住吉に達して、複々線のまま日吉、綱島へと至る。そして大倉山の手前で、分岐線が地下に潜って別線ホームが作られることになっている。

この分岐線こそが「東部方面線」で新横浜を経由して、相鉄線方面へと伸びるものとされていたが、長い間計画は宙に浮いていた。が、2006年頃から再び息を吹き返したようだ。詳しくは「東京通過思想・湘南新宿ライン」をご覧いただきたい。1990年頃に都市計画に携わる人にこういう話をしようものならなら「おとぎ話」、と一蹴されていたが、現場の粘り勝ちといえなくもない。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://saiquet.sakura.ne.jp/8869/mt-tkereb.cgi/332