2007年03月06日

新鉄道唱歌

コロムビアのSPに収められている「新鉄道唱歌」。この曲はCD化もされて懐メロなんかを集めたボックスで売られている。
しかし、そこでは名古屋止まりで中途半端な感じなのだが、SP両面に収めるとなるとしょうがないのだろう。いろいろ調べてみてはいるが、SP少なくとも第3集まではあることが分かっているので、こういう調子で少なくとも神戸までは歌われているに違いない。
歌詞は耳コピー。不明な点もあるけど、そこは適宜調査で補っていくつもり ^_^;


帝都を後に颯爽と
東海道は特急の
流線一路富士桜
燕の影も(うらら)らかに
東京駅を出発する。
1番には東海道の特急の名前が唄い込まれている。
流線とは当時の流行だった流線型を取り入れた電気機関車EF55を指すという。
横浜過ぎて野は緑
松風吹くや鎌倉の
歴史の名残波遠く
銀幕花の色競う
昭和初期は、横浜を出ると「野」が広がっていたわけだ。横浜駅は当時横浜の中心部(現在の桜木町-関内付近)から離れた位置にあった。
銀幕花の色とは 松竹大船撮影所のこと。昭和11年にトーキー映画を撮影するために町工場の多い蒲田から、静かなこの大船に移転してきた。
小田原行けば湯の箱根
天下の剣もバス電車
越えゆく伊豆の海青く
温泉湧きし谷深し
小田原電気鐵道(現・箱根登山鉄道)は大正3年に終点の強羅まで電化で路線を開通させている。
また、大正3年にはすでに富士屋ホテルがバス事業を始めていて、箱根では観光ルートにすでに電車バスが活躍していた時代であった。
科学の力一念の
大地の闇を貫きて
丹那に入れば今此処に
時代は進むまっしぐら
昭和9年の丹那トンネルの開通を唄っているが、これが「科学の力」であると理解されている点が興味深い。
長大トンネルのために最初から電化されていたことなどが、理由として考えられる。
丹那トンネルが開通する以前は、東海道本線は現在の御殿場線を経由していて、急勾配が連続するため輸送力に限度があり、また機関車を付け替えなければならないなど所要時間の点でネックとなっていた。
霞の高嶺雪の富士
松原遙か静岡へ
石垣苺艶添えて
三国一よ世界一
松原遙かとは美保の松原を唄っているのであろう。
石垣苺は大正時代にすでに形成コンクリートによる栽培方法が確立され、昭和初期には京浜地区へ促成栽培苺として高値で出荷されていた。
促成栽培によって品質が安定していたために人気を得たのだろう。三国一よ世界一とは品質と価格をともに唄っているのかも?
新茶の香りほのぼのと
甍の匂う静岡市
駿府の蹟に家康の
栄華の夢を忍ぶかな
駿府とは駿河国府中のことで現在の静岡付近のことをさす。
家康が武田勢から駿府を奪い取り、居城を構えたものの、豊臣秀吉から国替えを言い渡されて取り上げられてしまった。江戸幕府開闢の後、隠居と称して再び駿府へ戻り「大御所」政治を行い、駿府は大変な繁栄振りだったという。現在の静岡の基礎はこのときに固まった。
栄華の夢とは、こうした静岡の歴史をふまえている。
川波白き大井川
島田金谷の宿々に
今なお残る朝顔の
昔語りも哀れなり
朝顔の昔語りとは、人形浄瑠璃「生き写し朝顔日記」に語られる悲恋物語。
恋人を捜す盲目の娘・朝顔が、諸国放浪の末、この地で川留めに合い悲観して大井川に身を投げるが島田宿で助かり目が開いたという物語。
その名も優し浜松の
松風ならぬ青空に
爆音高く飛び交うは
我が陸軍の飛行隊
浜松には陸軍第1飛行団飛行第7連隊が設置されていた。昭和8年には浜松陸軍飛行学校が創設されている。この訓練飛行のことを唄っているのだろう。
弁天島の眞帆片帆(まほかたほ)
浜名湖過ぎし豊橋や
稲荷参りの客降りて
水上涼し蒲郡
弁天島からの眺め。眞帆片帆とは帆に風を受け、漁に出ている何艘もの船の様子を唄っているのだろう。
この稲荷とは豊川稲荷のことで、参詣客輸送のために豊川鉄道が明治30年に開通している。現在のJR飯田線の一部。
日の本照らす草薙の 御劔祀(みつるぎまつ)御社(おんやしろ)
熱田の宮を(おのが)めば
名古屋の駅は早近し
熱田神宮には草薙の剣がご神体として祀られているという。
トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://saiquet.sakura.ne.jp/8869/mt-tkereb.cgi/346