2008年05月28日
ベートーヴェンの満面の笑顔
ホグウッドがいなければ、私はベートーヴェンを、それも交響曲を聴くようにはならなかっただろう。現在では「ピリオド系」と呼ばれているジャンルを一気にメジャーに押し上げたのは彼の第一功績だ。
そして、今聴いているのは「交響曲5番 ハ短調」。3番まではフォルテピアノの弾き振りだったホグウッドは、フォルテピアノはAlstair Rossに任せて、自分はタクトを握ったようだ。確かに、編成が大きくなると通奏低音の位置からではアンサンブルを見通せなくなる。それに、モーツァルトやハイドンの「低音に和声を乗せて、メロディライン(声部)を絡ませて」という音楽の作り方から次第に離れていくと、鍵盤上の発想では音楽全体を見通せなくなってきているのではないか。
戦後、バッハの音楽に「通奏低音」と称する即興を含むチェンバロが入れられ始めた頃、あるいは、モーツァルトのオペラのレシタティーフにチェンバロが入れられ始めた頃、「音楽識者」は楽譜にない音を「勝手に」入れていることに怒ったという。
それが、今日バロック音楽では当たり前の即興的通奏低音鍵盤(笑)は、モーツァルトでも当たり前になり、ベートーヴェンでもとなるか..ホグウッドは6番以降の録音に当たっては、フォルテピアノを起用するのを止めてる。
それにしても、この20年以上前の録音は、今以て古く感じない。すごいなーと思う。さらに今感じ取れるのは、「楽器の性格」をベートーヴェンが使い分けていたことをちゃんと見抜いた演奏をしていると言うことだ。どんなにシリアスな表情の音楽にも、ちょっとファゴットが顔を出せば、そこに小さな諧謔の発露がある。オーボエが歌うのとフルートが歌うのではそこに差す光が違う。20年経って、やっとそのことに気づいてきたよ。なかなかこれはできない演奏だなと。そして、たまーに聞こえるフォルテピアノの音。楽譜に書かれていない音がしていることが、ベートーヴェンの交響曲においてもこれほど重要であろうとは。惜しむらくは録音の中で相対的地位が低いことだ。もっとばんばん聞こえてくればおもしろいのに。
とはいえ、これが1986年当時の限界でもあろう。オーケストラの中にピアノの定席がないことが常識だった時代、ピアノの音がばんばん聞こえては「マズイ」わけだ。
Beethoven: The Symphonies / Hogwood, Academy of Ancient Music [Import] [from US]
Ludwig van Beethoven (作曲)
Academy of Ancient Music (合奏)
そして、曲は4楽章コーダへと向かう。管楽器がこれほど楽しく、色彩豊かにオケの中で響くその喜び。...キーボードを打つ手は停まり、しばし曲に聴き入る...というか、喜びを共有する。興奮する。肖像画にはなっていないが、ベートーヴェン満面の笑顔が思い浮かぶのもこの4楽章のコーダなのだった。
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